ああ~祇園祭り

祇園祭の日には梅雨が明ける、と言われるように今朝は晴れて、予報に反して夜になっても雨は降らなかった。
 山鉾巡行の模様を写真にとりに出かけたかったけれど、その時間は絵の教室があってでかけられなかった。TVで四条河原町交差点の辻切りを見ながら、今年も祇園祭にまつわるあれこれを飽くことなく思い出した。   
 私は東京に生まれ、30を過ぎるまで関東をでることはなかった。関西には縁がなかった。初めて関西の京都を知ったのは高校の修学旅行でであった。その八年後、学校の職員旅行で又京都に行った。祇園祭のことはその学校で知ったのだった。その時はやがて京都に縁づくことになろうとは夢にも思っていなかった。
 春休みの職員旅行が終わり学校は新学期を迎えた。そこで私は新入生の女子クラス担任になった。年末に10か月足らずの間務めた会社を辞め、縁あって、年明けに千葉県の実家近くの高校の教師になった。とはいうもののもともと教師になるつもりなどなかった。ばかりか、小さい頃から先生だけにはなりたくない、と思っていた。だから教職課程もとらなかった。学校長はそれを知って仮免許を申請してくれた。東京都の教職免許は、春から大学の夜学に通って翌年無事取得した。だからわたしは当時いわれていた「でもしか」先生である。私の場合仕方なくなったの「しか」先生になる。
 学校は男女共学で、創立3年目だった。その時理数科、特に理科の教員がいなかったのである。その話をしたのは母だった。10歳下の妹が2年生か1年生で母はPTAの役員をしていた。
大学は出たけれど、女子の就職先は限られていた。その上できの悪い私だった。卒業間際に新卒募集の記事でどうにか就職できた会社だったのだ。今では大手の電気メーカーに吸収されているけれど、できたばかりで毎年100人近く新入社員を採用していた。大手会社の汎用コンピューターの販売とソフト開発などをする会社だった。六本木近くにあって、通勤には家から2間近くもかかる。3か月の研修期間が終わると、毎日遅くまでの残業が続いた。6時に家を出て、10時過ぎ、時には終電で帰る日が続いた。仕事は区役所の仕事をコンピューターに乗せるために分析することだった。専門分野外で、さっぱりわからず正直面白くなかった。その上通勤時間はかかるし、体重は10キロ落ちて、体力に限界がきた。そんなとき、母が理科の先生をさがしているという話をもってきた。わたりに船とばかりに飛び乗った。私の悪い癖である。石橋を叩いて渡る、という慎重さがあれば、今のようにはならなかっただろうのに。
 これから先の話はもう40年以上前のことなので、細部は極めて怪しい。
1年の女子部は確か3クラスか4クラスあった。私の教科は物理Bで、授業は3年男子部の3クラス週15時間に担任クラスのホームルームで、少しばかり少ない。他の担任の教科は国語、英語などだった。皆私と年齢が同じか1年上くらいだった。職員全体の平均年齢も若かった。
 教科はともかくロングホームルームはとても苦手だった。45分をどうつかえばいいのか、悩む私に先輩教師達は親切だった。中でも国語の先生は自分の授業を見学させてくれた。学生時代演劇部で活躍したという彼女はじつに話がうまかった。生徒の目線にあわせ、ある時は膝を折って、身ぶり手ぶりで話に引きこんでいく。自分の見た映画や、小説の話しに私も引き込まれた。映画では「道」、小説では「橋のない川」。彼女は自分で話しながら感激のあまり涙まで流していた。そんなにいいものなら、と私も映画をみ、小説を読んだ。
 住井すえの「橋のない川は部落解放運動をテーマにする長編物語である。始めの方の巻で、たしか川向うの住人と市内の住人が山車を競うというのがあった(ような)。もしかしたら映画の場面だったかもしれない。そんな話を祇園祭になると、思い出す。けれど不確かな記憶でなのだ。被差別部落民のエネルギーが伝わる力のこもった描写だった。それが祇園祭のことだったと思い込んでいるのだ。
 新学期が始まって1月、私のHRで盗難事件があい継いだ。最初はお財布、それから新しい制服がなくなった。困っていると、生徒指導部長が助けの手を差し伸べてくれた。30代始めの社会科教師で、校庭の奥にある教職員寮に住んでいた。勤めてすぐ、彼は当校のひかる源氏なのだという噂を聞いた。ほとんどの女教員のあこがれの的なのだとか。しもっぷくれの締まりのない体形で、後のあだ名は「毛さん」。そういえば毛沢東に似ていた。
 指導部長に教わったとおり、生徒が教室を出て空白になる前、回りにいたのは誰か、60人近くいる生徒全員に書かせた。犯人探しである。個人面接と紙に書かれた内容を夜になるまで分析してついにわかった。放課後日が暮れるまでの作業と、該当する都内に住む生徒の家庭訪問も、彼は実に丁寧に付き合ってくれた。そんな時国語の先生が、彼はあなたにのものすごく優しいのね、と言った。国語の先生も彼に夢中だったと知ったのはそれからしばらくしてからだった。
 指導部長はひかる源氏と言われるだけあって、知識は豊富、話もうまかった。「みんなの幸せはぼくの幸せ」などといったりする。その先生がある時わたしに「MLSってしってる?」と聞いた。私は、もちろん「知ってるわよ。LARGE、MIDDLE,SMALLでしょ]と言って、笑われてしまった。彼は言った。「マルクス、レーニン、スターリンだよ。勉強がたりない。今度勉強会があるから来てみなさい」
 集会は日曜日、ある教員のアパートの1室で開かれた。アカハタの日曜版を読む会だった。
 それからしばらくして、彼は左翼運動者で、学校には他にもオルグいることを知った。当時学校には教員組合がなく、組合を公然化する準備中だった。私学だったから、経営者にばれたら即首である。活動は秘かに進んだ。 私の妹は、公立入試に失敗して、中学校の推薦で特別入学したのだった。そのせいかどうか、校長のお気に入りの生徒と思われていた。さらに、私の給料は、経験がないのに同じ年齢の教師よりだいぶ高かった。給与の話が出た時、勤めていた会社と同じ額を希望したのをすんなりのんでくれたのだ。それが職員の中で問題になった。妹や給与のことで、私は経営者側のスパイと思われていた。だから指導部長が近づいて、さぐりをいれてきたのだった。結局私はノンポリで世間知らずのお嬢さんだとわかって、あっさりまるめこまれた。 男性教師が新人の女性教師に近づき、女性教師が新人の男性教師に近づいて、組合員活動に引き込む。食事会に誘うことから始まり労音へ、観劇会へと誘い、もろもろの悩みの相談にのり、親密さを深めるというのが彼らの手だった。それに気がつたのは勤めて3年過ぎたころだった。
 母親大会、日曜集会、他校の首になった先生の応援など、活動に参加はしたけれど、どうも他のひとのように夢中になれなかった。周りが狂信的になるほど冷めてしまう。そのころになると、日曜に成田闘争に参加して、闘争の跡を残して登校する先生や生徒が見られるようになった。生徒会も左に傾き始めた。ある時、休日の集会で、討論会が深夜まで続きアパートに泊ることになった。その時指導部長の背中にセミのようにしがみついて眠る国語の先生を見て一遍に興ざめしてしまった。それだけではないけれど、私は脱会した。
脱会してしばらくして、教職員組合は公然化された。国語の先生は指導部長、組合長の妻となり退職した。
 ある朝登校してくると、始業前の教室の窓が真っ赤になっていた。教室で組合の集会がひらかれていた。朝のショートホームルームの時間までくいこんいる。職員室はほとんどからっぽだった。その時はいやな感じと思っただけだったが、ショートホームルームでクラスの生徒に「先生はどうしていかないんですか」と言われて、私は返事につまった。自分の考えをうまく言えないのがもどかしく、職員室に戻る時に初めて疎外感を味わった。
 といっていまさら組合に入るきなどなかった。学校がだんだん居心地の悪い場所になってきた。
 教科の性質と、指導力の弱さもあって授業についてくる生徒は年々少なくなる一方だった。それに田舎教師で終わるのもと迷いが出た。私は30歳になっていた。そんなときに今度は父親が部下の男を家に連れてきたのだ。これも後で知ったのだが、父は、嫁に行き遅れた娘がいるから見に来いと、実の娘には言わず他人に下見をさせたのだった。背が低くずんぐりして好みではなかったが、はにかんだような、ひとなっついこいような笑顔の男だった。実家は京都だと言った。
 またしてもわたりに船だった。その年の末私はその男と結婚した。2度と教員になることはあるまいと、私学共済金(年金)も清算してもらった。
 ところが、結婚してすぐ、夫には、長く付き合っている親しい女がいるのを知った。私と同じ名前の彼女を、姉のようにおもっているひとだからと、毎日家に連れてきて食事をし、旅行にも連れていく。夫の友達だからと最初は丁重にもてなしていたが、日がたつにつれ二人の行動は友達の域を越えて見えるようになった。遅延回路でできている私でも、おかしいとすぐにわかるしぐさを私の前でするのだった。それを知っていながら、夏、家を開けて、夫の実家すぐ近くの産院で次女を出産した。前年長女を生んだ時もそうだったが、出産にも、入院中も、仕事が忙しいと夫は来なかった。
 次女の出産から二週間後は祇園祭の巡行にあたっていた。次女を姑に預けて、私は四条河原町の阪急デパートの前まで巡行を見に独りで行った。雨が降って暗かった。人出はすくなく私は、始めての、辻切りをはっきり見ることができた。
 その翌年の夏、青森から東京の本社に転勤が決まった。本社への転勤を喜ぶのが普通なのに、夫は転勤を嫌がった。転勤を私が父に頼んで決めたとまで言うのだった。引っ越しが決まり転居先も決まったのに荷物の準備など何一つしなどころか、彼女とどこかに雲隠れしてしまった。八幡平に別れの旅行に行ったのだった。それをいいことに私は二人の関係を調べて回った。私の探偵行為が彼女に知れて、引っ越しは修羅場となった。荷物の間に挟まって、夫と私、彼女とその友達が対座した。応援を求める彼女に夫は肯定も否定もしなかったことまではっきり覚えている。
 それから二〇数年後、夫の退職した年の春、ファックスが一枚届いた。会社の保養所の申し込み書だった。そこに書かれていた参加者に、義姉として彼女の名前があった。それを見た瞬間忘れかけた記憶がはっきりよみがえった。旅行は、夫の母親の白内障手術の日に重なってもいた。独居の義母の世話に私は毎日ではないけれど通っていた。あれやこれや思い出すうちに私のどこかがプツンと切れた。もう離婚するしかないと思った。今なら夫には退職金がある。浪費癖のある夫だから長くもたないだろう。すぐに実行しなければならない。私は家裁に離婚調停の手続きをし、白馬山ろくの民宿に仕事を見つけて、家を出た。梅雨の半ばだった。
 第一回目の調停は七月一七日だった。前日松本から関空の近くの寮にいる娘の部屋にころがりこみ、翌朝京都に出た。
 調停は午後一時からだった。地下鉄四条烏丸に着いたのは10時過ぎ。早すぎる時間だった。烏丸で時間をつぶそうと思い地下鉄の出口に上った。
 出口いっぱいに澄み切った青空が広がっていた。雲ひとつない晴天だった。ひんやりした風にのって鐘と笛の音が流れていた。胸の内の黒く重い雲がきえていくようだった。祇園祭の山鉾巡行の日だった。御池通りは過ぎた後だった。急いで河原町通りに向かって、人ごみの中から辻切りを垣間見た。
 出町柳の家裁には指定時間前に着いた。1時には夫もくることになっている。ところが、時間がきても夫はあらわれない。一時間以上待ったころ、調停員は言った。「熟年離婚は多いけれど、離婚して困るのは妻のほうですよ。財産分割には応じても実行されるのはまれです。たいていの女性は生活に追い詰められるのが現実です。考え直した方がいいのではありませんか」
 敵はついに現れなかった。それでは調停のしようもない。仕方なく私は白馬山ろくに戻った。その数日後、娘達の計らいで家に戻った。いごこちのわるいことといったらない。私は死に体を装うことにきめたのだった。
 去年の夏、夫が脳梗塞の手術で入院中に夫の元上司にあたる彼女の弟が亡くなったとの知らせのはがき届いた。夫の入院は心臓血管の手術で不具合が起こり一月以上にわたった。暮れ近くにもう一本の心臓血管の手術がおこなわれることになった。夫は人生は一期一会などと言って、手術前に青森に飛んで行った。青森を出てもうすぐ四〇年になる。四〇年ぶりの青森行きになる。
 そして祇園祭りの今日、夫は再び青森に飛び立った。彼女の弟の一周忌に呼ばれたのだという。

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by babamama_123 | 2010-07-18 01:05 | かく | Comments(0)