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記憶の中の8月15日

今日は終戦の日。68年前の8月15日正午、玉音放送で日本が戦争に負けたことが知らされた。
 昭和20年ー1945年ー8月15日、私は一面小金色に輝く麦畑の中にいた。おかっぱ頭に薄汚れたズボンをはいて、腰には布袋を提げている。袋はお母さんが手で縫ったものだった。背丈を超える麦の林の中で、私は晩のおかずになるイナゴをとるのに夢中だった。一匹ずつ捕まえては袋の中にいれる。疲れて上を見ると、青空が見渡す限り広がっていた。
いなごを袋にいっぱいつめて帰る途中、大人達の声が聞こえた。その中に妹をおぶった母もいた。大人達はひそひそと話しながら歩いている。太陽は頭上にあってとても明るかった。
 後で、村の集会場で玉音放送を聞きに行ったのだと聞いた。
 終戦の日を迎えるたびに、奥羽山地の疎開先と、中野の家を思い出す。
 昭和19年、それまで住んでいた家は強制立ち退きで、歩いて10分もかからない同じ中野区の家に引っ越した。前の家は省線(JR中央線)が家の近くを走っていた。祖母と手をつないで黒い貨車を一台、2台・・・と10代以上も数えたのを覚えている。引っ越し先は2階屋で、省線までは1キロ弱離れていた。晴れた日には、2階から富士山を眺めることができた。青桐が1本ある狭い庭のある家だった。その年の8月、妹が生まれた。母は早産で小さかったと言ったが、小学校では健康優良児で表彰されるほどにそだった。妹が生まれたころから、戦争は激しくなって、東京にもB29が飛来するようになった。棚の上にのったかまぼこ型のラジオから警戒警報発令のう~という音を聞いた。夜は燈火管制で、どこの家にも暗幕があって
光がもれないようにした。暗幕をそっとあけてみると、サーチライトが交叉して動いているのが見えた。又、赤や青のライトをつけた飛行機が飛んでいた。夜空の星のようできれいだった。きれいだね、と言って叱られた。敵の飛行機だったのだろう。
家の裏には麦畑がひろがっていた。その上空を飛行機が落ちていくのが見えた。それを観た隣家の叔父さんは、日本は負ける、馬鹿な戦争をして、と言ったとか。並んで立つ父は、それでも、お国のために戦っているのですから・・・、と行ったとか。そうした風景が日常になった。家には生まれたばかりの子供と、中風(脳梗塞)で動くのもままならない祖母がいる。空襲にあっても素早く逃げられないと、父の遠縁を頼って盛岡の山村に疎開することになったのだ。3月東京大空襲の日、上野のホームはごったがえしていた。私は窓から列車の中に押しこまれた。
終戦前後のことは断片的に覚えている。お婆ちゃんが小さかった時のことをいつか孫達に話そうかな。

by babamama_123 | 2013-08-16 00:53 | 日々の記録 | Comments(0)