「おじいさんの傘」のこと

3月3日はお爺さん、舅の命日である。25年前の雛祭りの日に舅は亡くなった。享年80歳。亡くなった時、姑は、「あの人らしい日に亡くなりはった」と言った。どういう意味なのかいまだによくわからないのだが、女の子が産まれるのを待ち望んだのに、産まれたのは男の子ばかり、4人。(次男は一歳に成らないうちに亡くなった)その代わり、孫は4人の女の子と二人のおとこのこに恵まれた。初孫は長男の子供で女の子、5日おいて次男にも女児が産まれて、舅はとても喜んだという。女の子が好きな人やったから、というのがあの人らしい、と言われるゆえんなのかもしれない。
義父は若い頃洋装のショールや洋傘の小売店を営んでいた。私が嫁いできたころ還暦前後の義父は当の昔にそれを止めていて、大阪の会社で働いていた。それでも家のおしいれにはたくさんの洋傘や、ショールなどのこものが残っていて、盆暮れに帰省すると、傘やショールを私や子供達に持たせてくれた。子供達には学童用の黄色い傘、私には折りたたみや柄のついた雨傘や日傘もあった。
子供が産まれてから、義父は孫の帰省を待っていたように、家につくと、孫の手を引いて、近くの公園まで散歩に出た。幼い孫と手をつないで「よい、よーい」と言いながら歩くのだった。
義父さんの家族は、西陣界隈の路地奥にある古い小さな家に住んでいた。居間には長椅子と大きな椅子がテーブルを囲んでいた。上の座にあたる椅子にいつも義父はじーっと座っていた。寡黙な人で、大きな声を張り上げるのを聞いた覚えがない。家に来る人達がは一様に、義父を、「やさしいおひとやなぁ。男前はんやし」と言うのを覚えている。歌舞伎の俳優の誰それさんのようだとも聞いたことがある。面長で、目が大きく、鼻が高い。背も高いほうだから、若い頃は相当の美形にちがいない。歌舞伎には興味がないので誰に似ているといわれてもわからないけれど、高倉健に似ていたような気もする。何にしろ、イケメンであることは確かだった。ちなみに、長男は容姿も性質も義父の遺伝子をひとつも引いていない。背は低いし、目は母親ゆずりで小さい。気は荒く、怒鳴ったりする。
平成2年3月。義父は胃癌が全身に転移して危険な状態だった。末期がんで自宅療養していた。それでも長女の大学合格をしらせると痛みをこらえて、よかったなぁ、と笑みをうかべて喜んでくれた。当時私は働いていたので、義父の介護はしていない。仕事が早く終わった時や土日にお見舞いに行くのが精一杯だった。いよいよ最後の時、お見舞いに伺った。その時ベッドの脇にいたのは私一人。義父は、「何でこないにいたいのやろう」とつぶやいた。それからしばらくして、「わしは、幸せやった。しあわせな男やった。ありがとうな」と「ありがとう」と何回か繰り返した後、「Yをよろしくなぁ」と長男の名前を言った。私、その時なんと応えたのか、覚えていない。黙ってうなづくしかなっかった。(夫には内緒にしてある)
それまで、義父は私にとってどちらかというと親しめる人ではなかった。話し合った覚えもない。けれど、その時以来、義父は本当は優しい人だったのだと、思い出すことが多々あった。「ありがとなぁ」は他の家族は聞いていないという。以来桃の節句の頃になると義父のことを思い出すようになった。
3人の娘たちが成人して、ちょっと油断した私は仕事を止め、自分へのご褒美に、カルチャー教室に通い、絵画や版画を楽しみ始めた。描いている時間がなにより楽しく、それだけでよかった。けれど駄作がたまってくると、こんなことをしていていいのか、やっぱり何か目標というようなものを持たなければとおもうようになった。もともと童話や絵本がすきなので、絵本を描いてみようとおもったのはもうずいぶん前のことだった。そのときうかんだのが、義父の傘である。ストーリーと絵の構想はあるのだけれど、中々物にできないでいる。このままだと、私の未完の遺作に成ってしまうかもしれない。

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by babamama_123 | 2015-03-24 12:42 | 日々の記録 | Comments(0)