2014年 10月 27日
始めての塩ビ版画
日曜の朝、いつものごとくどたばたとあれこれ片づけて、教室に出かける寸前に、板をとりだし、ハサミでさらに半分に切って、あわててでかけた。
教室で、まず塩ビ板に、プレートマークをつける。やわらかいので、スクレパーで簡単にけづることができた。
次に、思いついた絵柄を塩ビの裏面にマジックで描き、ひっくり返しす。
濃淡のでるように、筆圧を工夫しながら、マジックの宣の内側をニードルでひたすら刻む。広い面は小さいルーレットを使った。
それから、インクを詰める。その時、お隣のMさんが、色々なカラーインクをつかってみたら、と2色貸してくださった。教室のインクも使って、一版多色刷りに挑戦。
今回はインクの乗り具合をみたかったので、筆圧の違いがでればいいくらいにしか考えていなかったのdったが、刷り上がってみると、結構おもしろい感じになっていた。
先生から、木工ボンドを薄く塗って、乾いてからインクを乗せると、風がふいているような感じがだせると伺った。たぶんアクアチントの効果あだせるかもしれない。なんだか、いろんなことができそうで、面白くなってきた。


2014年 10月 23日
母の味
鮭の卵をほぐしながら、なくなって3年になる母を思い出した。
北海道熊石の漁師の子として生まれ育った母は、魚料理が得意だった。亡くなった父も、母の手料理をてばなしでほめていた。魚といっても、ほとんど北海の魚で、いか、たら、さけ、ほっけなどである。この時期は鮭で、95歳でなくなる寸前まで、鮭の卵を買ってきていくらや筋子を作っていた。実家に行くと、冷凍庫の中に、筋子の醤油漬けや粕漬けがタッパーに入れて保管してあった。私は様々な事情で娘3人を連れて長期滞在で母の厄介になった。そのせいか、娘達とりわけ長女は祖母である母の作ったいくらが好物なのだ。母もうれしいらしく、子供たちが大きくなっても、実家に戻ると、必ず筋子や、母の郷里からとりよせはたうに、たらこ、などを用意して食べさせてくれたり、おみやげに持たせてくれるのだった。
いくらはこの時期、自分でもつくるけれど、最近お値段が気になって控えていた。
いつもは、お湯を通して、大根の切れ端で卵をとりだすのだが、今回は、薄い塩水につけながら指でしごき落した。粒が大きいので、思ったより簡単にとりだせた。皮や卵の抜け殻を取り除いて、2、3回塩水を取り換えて洗い、水を切って、びんなどに入れ、生醤油に漬ける。びんに入りきれなかった分は、みりんとお醤油を合わせ、火にかけアルコールを飛ばして、さめてから卵につけた。できて3時間もすると食べられる。夜中に帰ってきた娘は、うんま~、と行ってぱくついた。




2014年 10月 22日
今月の本
1冊目 「Mの秘密」 西村京太郎

Mはマッカーサー元帥の頭文字である。推理小説家がスランプに陥った時、不動産屋からいわくつきの古い家屋を買わないかと勧められる。家の持ち主は、元華族の娘で、母親h吉田総理と関わりのあった人物と聞いて、高額であったにもかかわらずその家を買って住むことになる。それからしばらくして、東北の大震災があり、家の壁もひびが入った。彼はひびが崩れた隙間にかたい木の箱を見つける。木箱の中には元家主の母の日記がはいっていた。日記は終戦後に描かれたもので、M、Yという頭文字の人物との交渉が綴られていた・・・。彼はその日記をもとに、「小説Mの秘密」と題して書き始めたのだったが・・・・・
これは、殺人もあるれっきとしたサスペンスなのに、始め4分の一はすっかりだまされて、え、本当?とおもいながら夢中で読んでしまった。読み終わるとなんと午前3時。
サスペンスではあるけれど、憲法制定にまつわる記述はでたらめではないだろう。九条について考えさせられるきっかけになった。
2冊目 「永遠の0」百田尚樹

4年連続で司法試験に落ちてやるきをなくした青年が、フリーライターの姉に頼まれて、亡くなった祖父のことを調べることになる。祖母が亡くなったとき、今の祖父は祖母の2度目の夫で、前夫は特攻で戦死したときかされていた。弟はしぶしぶ引き受け、戦友を頼って祖父を調べて歩く・・・・。
零戦にのったいきさつ、戦闘の様子、家族や軍隊、決死の心境などひきこまれた。大きな感動の余韻の残る物語だった。
戦争というのは、犯罪に問われない殺人行為なんだ、それで、国や家族は決して守れない。戦後70年の今、なにやら蠢き始めているけれど、しっかり考えなければと思う。軍備なく国を防衛できなものだろうか。ガンジーの名を思い出した。
3冊目 略
2014年 10月 20日
絵画教室
モチーフは、石膏の入った静物を書いてみたい、という希望を受け入れて、先生が組合わせてくださった。初回、木炭でキャンバスに下描きをする。先生に助けられながら、書き進めるうちに、だんだん不安になってきた。キャンバスのほぼ全面に広がる石膏の白をどうすればよいのか・・・。石膏がおおきすぎるように思えた。家に帰ってから写真を見て、構図を変えることにした。2回目、先週のデッサンをきれいに消して、ほかのモチーフを全部入れた。写真をとり、画用紙にも書いて、家で配色を考えることにする。それにしても、おばさんくさいヴィーナスだな~
教室風景

1回目

2回目

教室のTさんから、あけびを頂いた。栗をたして描いてみる。(パステル)

2014年 10月 16日
写真展 月蝕と秋の草花
皆既月食 10月8日 午後6時半すぎ
場所 京都市西京区 雲の切れ間に撮影(LUMIX一眼レフ 望遠レンズ使用)


小型デジカメ

府立植物園の秋の草花 10月15日午後2時過ぎ
一眼レフマクロレンズ使用
コスモス

ホトトギス

サラシナショウマ

その他







2014年 10月 05日
しその実の塩漬け
しその実の塩漬けには母の思い出がある。母は畑仕事がすきだった。終戦直後は借家の裏の土地を借りて、茄子、トマト、カボチャを植えた。私が高校に入った年、千葉県船橋市にある社宅に引っ越したが、その1軒分の空地をかりて、花や野菜を植えた。その7年後柏市に持屋を構えたのだが、庭は狭く、畑の余地はない。軒下や道路沿いなどの隙間やベランダのプランターに花や葉野菜、豆などを植えていた。母は北海道生まれだから、漬物をかかさない。採れた野菜はもちろん、白菜大根、茄子をつけて、一年中漬物をかかさなかった。その中に紫蘇のみの塩漬けがある。紫蘇のみを見ると、黒い粒粒の紫蘇のみを入れたお稲荷さんを連想する。母のお稲荷さんは、今思うとびっくりするくらい大きかった。(なんでも大振りなのだ。おはぎは握りこぶしより大きかった) 薄揚げ一枚の端を切ってごはんを詰めていた。紫蘇のみと人参シイタケ、ゴマなどがいっぱい入って、油揚げの油と酢飯と混じり合って、コクあり、風味あり、紫蘇のみのプチプチした食感とで絶妙な味だった。
ものぐさなな私は、稲荷ずしはすきでも、作った記憶がない。昨日も買ってたべたけれど、全然違う。紫蘇のみの入ったお稲荷さんが食べたい!うまく漬かったら、作ってみよう。Nさんにおすそ分けできるような、おいしいお稲荷さんを作りたい。


約300グラム


熱湯で1分ゆでる(あく抜き)

二割の塩をふり、重石のかわりに、水の入った瓶をのせた
2014年 10月 01日
御嶽山と富士山
図書館の入り口の正面に、季節や、話題の本を置く書架がある。そこに、「富士山大噴火 不気味な5つの兆候 木村政昭」の表紙を見つけた。書架におかれて間もないのだろう。ほかの人に借りられないうちにと、真っ先に手にした。
家に帰ってすぐに読んで、びっくりした。
木村政昭氏は海洋地震学者で、東日本大地震をその二日前に予言したことで知られている。私も、週刊紙の新聞広告の中にその名前を見たように思う。この本の中で、木村氏は、その東日本大地震が火山の噴火を促す、と書いている。富士山の噴火は2011年±4年、2015年までに 噴火する、とある。富士山ではなく御嶽山だったのか、とおもったが、本州の火山活動の項に、御嶽山が出ていた。本州ででは、少なくても3つの火山の噴火が予想される、として、御嶽山は、2013年±4年とあった。この本が出たのは、2011年8月。想定年数の幅が狭く、これまで何件かの予知があたっていたことを思えば、今回の噴火は想定内であったことがわかる。なんらかの備えができなかったのだろうか?スピーカーを山のあちこちに設置して、警報を鳴らすとか・・・。
とおもったが、噴火間際に警報を聞いても、私は到底逃げ切れなかっただろう。御嶽山には、20年ほど前に五合目あたりの木曽側の登山口から登った。時期は8月中旬、お盆休みの最中だった。覚えているのは、登りは鬱蒼とした木立の間にある階段の登山道で、早朝登り始めて、昼過ぎに頂上についたこと。9合目あたりの山小屋も、頂上の山小屋も人がいっぱいいたこと。一の池、二の池の青い水を貯めた小さな火口湖。
火口湖を見て下山道を進んだが、登りに比べて、かなりきつい道だった。雪渓はあるし、崖っぷちの細い道に、岩がごろごろしている。日暮れがせまっていたので、気持ちは急くし、足元が怖かった。そんな時に、上から噴石がふってきたらとてもよけきれない。
下山された方が、命からがら、と言われていたが、本当におそろしかっただろうと思う。
次は富士山。2015年まであと三月弱。今は400年続くという火山の活動期にはいったところだという。この世の地獄を見ずに一生を終えることはできるだろうか。
