2012年 06月 11日
広島ー3
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by babamama_123
| 2012-06-11 17:08
| 歩く
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2012年 06月 11日
広島ー2
30年近い前の3月下旬、高松から夫の転任先である広島に移転したのだった。4月から長女は小学校5年、次女4年、末娘は2年生になる。私は今の長女より1,2歳上だった。転勤先が広島と知った時、すぐにおもったのは、原子爆弾のことだった。投下されてから40年以上たってはいたけれど、放射能が心配だった。けれど、目にした市内の様子は広い道路に立派な街路樹が並び、新しい高層ビルが立ち並ぶきれいな町なのに驚いたのを覚えている。家は西広島で爆心地から10キロくらいのところだった。そこは戦前からの古い家で、借家が3軒ならんだ真ん中の家だった。南側の家と我が家は似たような作りで、広い敷地に畳一枚ほどの池があり、池には灯篭と橋がかかり、池の周りの小さな築山に立派な松が植わっていた。北隣は噂によると大家さんの兄さんだかがすんでいたけど、今は行方不明で、玄関の戸は壊れ、畳はなく、床板が落ちて、どろだらけ、屋根もくずれた廃屋で、なんとも気味の悪い家だった。私の家にしても、しんと静まった夜には、柱だかなんだか、ピシッ、ピシッという音がした。小学校は家の路地を出て5分ほど歩いたところにあり北に山がせまっていた。天候してしばらくしてから、校庭のあちこちに、いまもって人骨が埋まってる、と子供達が話していた。
時間があったら、市電にのって昔の古巣を訪ねてみようか、という気持ちはあった。が、娘と別れて、歩き始めるともう2時過ぎだった。それに最大の目的は、お好み焼きを食べることと、アンデルセンの本店でおいしいものを食べ、きのきいた雑貨をみること、だったから、市内をゆっくりうろつくことにした。
広島には3年住んだ。あとの2年は街の中央あたりに毎日通った。住み始めて1年目、私はアルバイトで覚えたコンピューターのプログラムを作る仕事を始めていた。見た覚えのある建物に当時を思い出しながら、メイン道路を歩いたのだったが、方向音痴と、記憶違いとで、自分が通った道ではなかったと、夕がたになってやっと気がついた。
紙屋町の交差点に、たしかそごうがあって、そこに広島太郎がたっていた、とおもいながら歩いたけれえど、紙屋町についたのは6時ころで、脚がつりはじめていた。
広島太郎というのは、当時TVにもでた有名人であるけれど、長髪を細い三つ編みにして、髪の毛の間に5円玉が結わえられていた。たしかいつも黒っぽいロングコートをきていて、こーとには、空き缶などがたくさんぶるさがっていた。人目を引く不思議な人物で、デパ地下で試食しているのをよくみかけた。仕事先で若い男の子に聞いたはなしだけれど、太郎氏はもと某大手会社のサラリーマンで、結構な地位にあったが、管理社会に幻滅して辞めたのだとか。自宅もあって、往きつけの酒場もあるのだとか。あの容姿からどうにも結びつかない話をきいて私は唖然としてしまった。
あれから30年、太郎氏は多分70代になっているのではないか。どうなっているのだろうか、とても興味がある。
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by babamama_123
| 2012-06-11 16:33
| 歩く
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2012年 06月 11日
広島顛末記ー1
覆面パトカーを気にしながら、時速100キロ以上で飛ばして宝塚までは順調だったが、そこで渋滞に巻き込まれた。娘は集合時間を気にして、きがえの時間がなくなると、あせりはじめる。渋滞を抜けると又飛ばし始めた。ナビの到着予定時間がどんどん短縮されていく。兵庫県をぬけて、給油とトイレ、朝食にSAに寄った。その時、娘は集合時間を1時間早くよんでいたことに気がついたのだ。
けれど、着替えの時間が十分あると安心するのは早計だった。
11時過ぎに集合場所のホテルについて、着替えの部屋を聞くと、ないという。その日の宿泊先になってはいたけど、チェックインは3時過ぎで入れない。どうしようと青くなっていると、そういう方は今までトイレで着替えていらした、と若い女性に言われた。少し広いから身障者用のトイレがいいですよ・・・、と。
とはいえやっぱりひどい状況になった。出てくる時は肌寒いくらいだったのに、岡山から先は晴れていて、広島は青空がひろがって陽射しがきつく真夏の暑さだった。寒い方にあわせて長袖のシャツに上胃を着ていたので、トイレにはいるやいなやたちまち汗がふきだした。その上、着替えの最中に、足袋がないの、ヘアーピンがないのと、なんやかんやたりないものがでてきて、付き添いにきたわけでもないのに、直近のコンビニに使い走る羽目になった。足袋だけはどうにもならなくて、式場で調達できるかもしれないと、いいながら着替えがはじまった。着物というのはややこしいから私は敬遠してきた。だから着付けの手伝いなんかできるはずもない。紐、タオル、と言われるままにさしだして、どうにか帯までこぎつけた。集合時間まで残り30分。ところが、お太鼓を結ぶ段になって、どうもうまくいかない様子になった。袋から着付けの本をだして、見ながらほどいたり巻いたりしている。何度かやりなおしてから、やおら、ドレスにする!と娘は叫んだ。
タケノコの皮をはぐように、一枚一枚脱ぎ捨てる。私はそれをひろいあげ雑にたたんで袋に詰めた。肌十番は汗でしめっていた。備えあれば憂いなし・・などといいながら、二次会用にと洋服も2種類もってきていた。私が片づけている間に、娘の着替えは済んだ。残り10分。急がなくちゃとロビーに戻り下を見ると送迎バスが待っていた。
このホテルは娘に用意されたもので、私の宿泊先は少し離れたところにあった。じゃあね、とあっさりいわれて、炎天下をホテルに向かって歩いた。この1時間あまり、なんだったのだろう。むなしさで空腹感を覚えた。
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by babamama_123
| 2012-06-11 15:18
| 歩く
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2012年 06月 04日
今週の作品
だらけている間にもう6月。1年の半分が過ぎようとしている。いつものことだけど、暑くなってから特に気力も体力も衰えて、動くのがとてもしんどい。それでもかようだけでもと、目的もはっきりしないのに教室に通った。どうにかしあげたけれど、案の定ちっと進展しない。それでもいいか、自分で自分をなぐさめている。
アスパラガス 水彩と鉛筆
猫 油性パステル
雨の日 銅版画 エッチング 14.5×10㎝
娘達の幼いころの一日。真ん中は末っ子。ピアノは次女、読書は長女。三女だけは爺さん人目でわかった。ついでに俺の肖像画も壁にはってくれ、だって。
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by babamama_123
| 2012-06-04 14:08
| かく
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2012年 06月 01日
木漏れ日の家で
アニエラはワルシャワの郊外の森の中の古い木造屋敷に犬のフィラデルフィア(フィラ)と暮らしている。家はかなり老朽化しているが、昔の面影をそこここに残していて、なにより窓に映る木漏れ日が風情のある家なのだ。独り息子は妻と娘と別に所帯を持っている。アニエラの家にはたまにしか来ないし、連絡もなかなかとれない。たまに電話がかかってきても、受話器を取りに駆けつけてると切れてしまう。急いで階段を降りる老婦人の姿が痛ましく見えた。思うようにならないとイライラして、時にフィラに八つ当たりもする。
アニエラはこの家で静かにくらしたかった。木漏れ日の中に揺れるブランコを見ると、そこには幼い独り息子が膝絵御まげてブランコをこいでいる。又、若いころの自分が今は亡き夫とダンスをしている姿がその中に見えるのだった。ところが、隣家の子供達や、野外音楽練習にくる子供達の声がその追憶をいつも破る。たまに訪れる息子の車もアニエラの平穏を破った。
ある晩、フィラの吠える声に目が覚めて、窓の外を見ると、息子夫婦が隣家の居間にいて会談していた。そして、帰り際の息子夫婦の会話を聞いてしまう。愛していた息子の本心を見てアニエラはショックを受け生きる希望をなくしてしまう。喪服を着て、手を組んでベッドに横たわって、しばし、突如として、いきかえるのだった。そしてある決心をする。
そんなアニエラの気持ちをすべてさっしているのはフィラだった。言葉はないけれど、犬のまなざしが語っているかのよう。犬の演技がすばらしく、印象に残った。
アニエラの決心が実行されて、間もなく、彼女はロッキングチェアーにすわったまま動かなくなった。アニエラの膝に手をのせて、フィラがいつまでもアニエラをみつめている・・・
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by babamama_123
| 2012-06-01 15:31
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